【大分・探偵】日本唯一親子三代探偵・行政書士キシワダの調査事件簿
2019/04/16
日本唯一、親子三代探偵 キシワダの調査事件簿
皆様、ごきげんよう。
日本唯一、親子三代探偵・行政書士キシワダです。
今日は、私が探偵となるきっかけを作った
師匠でもある、我が親父について綴りたいと思います。
既に他界して15年。個人情報保護法には抵触しません。
まぁ、名誉棄損、にも当てはまらないかな?
もっと良い事書けよと
夢枕に立つかもしれませんが、そこはご容赦いただきましょうw
思い返すと、様々な伝説を我々家族に残してくれました。
他界して久しいですが、盆や正月、兄弟が集まると、
親父の話で、未だに盛り上がります。
四字熟語で伝えるなら、豪放磊落、傍若無人、支離滅裂、等々(笑)
とにかく、ぶっ飛んだ人でした。私もそうですが、探偵は大体
ねじが飛んでいないと、務まらないのかもしれません。
そんな親父ですが、外見も内面もインパクトがありました。
外見は、天然パーマで金縁眼鏡、ロレックスにセカンドバッグ。
そのものズバリ。アウトレイジな風格。
私の高校の卒業式の時に、親父が出席したのですが、
その外見で当時は薄紫色のダブルのスーツでお出まし。
保護者は既に入っていて、遅れて体育館に入ったものですから、
周りから、ヤ〇ザが。ヤ〇ザ、親分クラスが卒業式に来た~とざわざわ。
マジか。誰の親やねん?~と、体育館に向かう私が、ガラス越しに覗くと
親父でした。(笑)
帰宅途中、タクシーの中で、何で遅れたん?と聞いた時に、親父は
「真打ちはな、遅れてこそ光り輝くんじゃ」
帰って、母に何で遅れたん?と私が聞くと、「寝過ごしたんよ」と。(笑)
そんなゴーイングマイウェイな親父でしたので、家族はたまったものじゃない
外見もまんまアウトレイジな装いですが、キレるとネイティブな河内弁を話す 親父
何故だかわかりませんが枕元に竹刀立てを置いて「守り刀じゃ」と置いて
キレると「ワレ~!」と竹刀を振り下ろすこともしばしば、
コレが本物の刀でなくて良かったです。
会話がエキサイトすると、河内弁を話すこれまたアウトレイジな喋りっぷり。
九州の田舎出身なのになぜネイティブ河内弁だったのか?
親父の半生を紐解きます。
親父は地元の中学生時代から、遠征して他の中学に殴り込みに行くような人だっ
たので、(生前の親父の口癖曰く、弱きを助け、強気を挫く、俺は正義のミカタ
やったんじゃ。例えるなら、月光仮面やな。)剣道柔道有段者でしたので、喧嘩
に明け暮れ警察や学校から祖父母はいつも呼出しがあったそうです。
噂が広まりアウトレイジな方々からも、面白い学生がいるとスカウトがあったそうです。
名前が売れた反面、進学する学校にとっては不都合な状況に。
地元の高校入試の時に、お前が来たら学校の評判が悪くなる。と高校の教師に言われ
そのまま席を立って貯水池に向かい、空を見上げながら本気でその筋のスカウト
を考えたと生前、親父が述べていました。
地元の学校では引き受けてもらえないという事で、祖父母が大阪の全寮制の学校
へ強制入学。そこでネイティブ河内弁をマスター。血尿が出る位しごかれた
そうです。
その甲斐あってか、個人戦で優勝という輝かしい成績を残し、大学も特別推薦。
その推薦で進んだ大学が、バリバリの右系の大学。。
時代は大学闘争時代。白いヘルメット被った学生相手に「学ラン着て、へなちょ
こ学生をどつきまわしたったわ。」
正義感が強い人でしたから警察の就職話もあったそうです。
その時、祖父が体調不良になり、夢を捨て地元に帰って、就職。
そののちに、祖父の元で修業をしたそうです。
私が、修業時代、
「お前の気持ちもわかる、けど俺もそうやって爺さんから鍛え上げられたんや。
我が家の伝統。それが人生っちゅうもんや」
うまく洗脳されたというか、(笑)私が騙されたのか、トークにかけては超一
流。今も私の営業での話術は、親父の話していたことを意識しながらやっていま
す。
そのアウトレイジ感漂う親父ですが、私が小学校5年生の時に、3日間ほぼ寝ず、
食べずといった無茶苦茶な調査を行ったそうです。
で、その案件が終わって報告の際に階段を昇っていたら、心臓に負担が。
総合病院に担ぎ込まれ、家族を呼んでください。と。
当時、一番下の弟がまだ3歳。私も10歳、訳の分からないまま、集中治療室に眠
る親父をみて、お父さんが死んじゃうんだと大泣きしたのを覚えています。
が、そこは不死身の親父。存命中聞いたのですが、三途の川に行ったら、向こう
側から曽祖父が、大きく手を振って、来るな来るなと合図を送っていたそうで
す。
人生観が変わったそうで、
「俺は、生まれ変わった。誕生日は盛大に祝え!」誕生日が1歳ですから、入院
中迎えた誕生日も病室にケーキ「○○ちゃん1さいお誕生日おめでとう」とのプ
レート本当は+3〇歳とは、まさか思わないでしょうね。
やりたいことをやる、と高らかに宣言。
と同時に家族は振り回される日々。これが亡くなる迄、続く事になりました。
入院中、病院の食事がマズイ。毎日夕食を作って持ってこい。
私が自転車の乗って、黒いランチジャーを病院に運ぶのが日課。
夕食後の回診で、看護士が、「あれ?何かいい匂いがしますね~」
その日は、母手作りの餃子でした。
就寝前に低血糖防止でビスケットが支給されるのですが、「俺は遊園地の象じゃ
ねぇ。パサパサのビスケットなんぞ、味気ないもん食えるか」
といって、
冷蔵庫に入れると看護士に見つかるので、「オイ。これを買ってこい」と。クー
ラーボックスの中に保冷剤を入れ コーラ&クリームチーズをディップして隣の
糖尿病の患者さん達と、沢口〇子風に(笑)病室パーティーをしていたそうで
す。
隣でおいしそうに、昔懐かし1リットル瓶のコーラを飲むもんですから、
その患者さん達もご相伴。数値が急激に変化したのがおかしいので、問いただす
と。親父とパーティー。4人部屋でしたが、親父の部屋には誰も入院患者さんが
入ってくることは無く、牢名主状態
私に、「オイ、お前、今日そのベットに寝ていけ」なんてことも。
何度も部屋を変更させられ最後には、二人部屋を占有したりしてました。
挙句の果てには、心電図モニターを取り外して、脱走。病院近くの中華料理屋で
ラーメンとビールを飲んで帰り。病院から、その日のうちに強制退院&今後出禁
を食らう始末。
「いつ死ぬかわからんのやから、食べたい飲みたいと悔いを残して死ねん!」
そう捨て台詞を残して、わが家へ戻ったそうです。
私が、学校から帰ると、居る筈の無い親父が布団で寝ていたのです。
「人間、いつか死ぬときは死ぬ。」
そうは言っても、急に退院と入院費用請求になったものですから
てんやわんや。祖母は定期を解約したり、母は何度頭を下げたことか。
医者から、3年生存すれば、あと3年。と親父は毎日、死と隣り合せの生活でした
から、太く短く、やりたいことはやる。日々我が人生に悔いなしで良いという性
格。
いつ死んでもいい。という性格は、人間を図太くさせます。
の、反面 信仰熱心な親父でしたので枕の下にを教典を置いて寝ていました。
内心は、日々の命に対しても想像に絶する執着があったのでしょう。
小学校高学年時代は、親父の看病がメインで、友達と遊んだという記憶があまり
ありませんでした。
アウトっぷり全開の親父ですから、年配の教師に対しても一過言は平気です。
中学生の時に、面談で先生から息子さんの教育にとって、お仕事を手伝わせるの
は、あまり良くないんでは・・・と教師が言ったそうです。
親父は、
「先生、八百屋の息子が八百屋を手伝う。米屋の息子が米屋を手伝う。じゃあ、
探偵屋の息子が探偵を手伝うのは良くないんですか?。男と女がいる限り、私ら
の商売は無くならんのです。
学校で教える綺麗事ばかりが、正しいとは限らんですよ。読み書きそろばんが出
来ても人生の勉強は教えちゃぁくれんでしょう。男なんてのは、腰から下は別人
格。教師だって悪い事しとるのも、おるじゃないですか。うちの子供には、理性
と倫理観を持たせるために、大人の汚い姿を今のうちから見せとるんです。
おまけに私はね、いつ死ぬかわからんのです。ね、先生。こうやって、私は常に
コレを(ニトログリセリン)持ち歩いとるんです。これは我が家の教育方針で
す。それでも文句があるなら、教育委員会に乗り込みますよ!」
本当に乗り込みそうな人でした。(;’∀’)
こうして、中学時代も探偵助手として、運転以外の技術を積み重ねていきました。
アウトな親父シリーズ、まだまだ続きます。
それでは、次回をお楽しみに。
皆様今日も良い一日を!
日本唯一親子三代探偵・行政書士 キシワダ